大切な仲間

 これまで 3回に渡って家庭で犬を飼育する際に係るコストの話ばかりを書いて来た。もっとも人間の子供にかかる金額を考えたら微々たる物で、僅かな額だとも言える。
 そりゃ確かにお金はかかるけど、それ以上に犬と共に暮らす事で得る物がある事を、実際に体験している。
 寿命がつきる最後の瞬間まで飼うという約束と、見取っるという覚悟も一緒に飲み込んで、限られた時間を共に生活する日々の中に喜びを感じているのだ。
 
 勝手な思い込みかもしれないが、苦楽を共にする「仲間」と一緒にいる事が「負担」と感じないのであれば、それは既に「喜び」と「楽しみ」と同じ意味だと、僕には思える。
 これは既に、僕にとって理屈では無くなってしまっているので、解らない人に無理に理解してもらえるとは思わないし、理解してもらえなくても一向に構わないとさえ思っている。
 人から何だと思われようが、僕自身と犬が共に幸せだと感じていれば、それで良い事なのだ。

 僕の場合、犬のお陰で近所付き合いも巧く行っている。犬を飼う前の 10年間と「アリス」を飼い始めた後の 6年間では、比較にならないほど家の周辺地域との「近所付き合い」が可能となり、幅広く豊かな人間関係を築く事ができて、実に円滑な暮らしが可能になっている。
 地域社会に上手く溶け込めた事で、近所の人からも「男一人暮らしだけど、何をしているのか判らない、何時も家に居る不審な人物」と誤解されていないだけでも幸せだ。
 それ迄の 10年間住んで来た中で一度も話をしたことの無かった近所との付き合いも、今では何の苦もなくスムーズに行える。自分とご近所さんの双方にとって、ただ「アリス」がそこに居るというだけで友好な人間関係を構築できているのである。

 学校が終わるとすぐ、我が家の犬と一緒に散歩がしたいと一目散にやってくる近所に住む子供達がいる。時には遠くに住む見知らぬ子供達迄やってくる。一度も会った事の無い親御さんから突然お礼を言われる事もある。自分でも知らないうちに、子供達の間で「アリスの小父ちゃん」で通っている。それが誇らしくもあり、くすぐったくもある。
 元は、自宅周辺を運動不足解消のために夜中や朝に歩こうと考えて、その際に不審者と誤解されない為に犬を飼う事に決めた。初めは、ただそれだけの理由だったのに、である。

 元々は自分のためだった。それが、いつの間にか誰かの為に自分から喜んで苦労することを選ぶ。それが嘘ではない証拠に、家族の為に、好きな人の為に、彼や彼女の喜ぶ顔が見たいから、子供達の為に、両親の為に、妻や夫の為に。不特定多数の誰かの為でなく、身近な人の幸せそうな笑顔を見たいがために、人は「端から見れば苦労」することを苦労だと思わないで日々の作業をこなしているのではないだろうか。
 父親が、毎日仕事に出かけるのは誰のため? 母親が、毎日家事をするのは誰のため? 人間の「やる気」とは、単なる義務感や使命感、責任感だけでは続かない事を、皆も自分の体で感じて知っていることと思う。

 もし、誰かの喜びを自身の喜びとして感じる心を無くしてしまっているとしたら、その人は既に世に存在する理由を失っていると思う。人は自分以外の他の誰かに「自分が役に立つ存在である」と認められたいが為に、自分の事を後回しにしてでも喜んで苦労をするのでは無いだろうか。
 存在を認められる事とは、すなわち自分自身の存在が誰かに喜んでもらえる事である。誤解を恐れずに言ってしまえば、人と犬の関係は、全面的・盲目的な信頼関係を結んだ結果、種を超えた愛情の受け渡しを実現した関係、つまり「相手の存在が自身の喜び」と感じられる心を共有した間柄である。

 ここまで来てしまったら、もはや「家族」よりも種を超えた「大切な仲間」になってしまうだろう。ぶっちゃけ自分が幸せになるために「家」や「親」を捨てることもあるだろう。しかし、互いに信頼し合った「仲間」を裏切る事は出来ないと思うのだ。
 もし互いの信じる道がある日を境にして分かれた場合にも、心から相手の「成長」を祈り、仲間を送り出してやる位の信頼関係を構築できなければ、いつまでも裏切られたと根に持って愚痴る関係にしかなれないのだろうなぁ。

 本来、結婚という社会生活は、お互いの限られた時間を共に生活をする事で、互いの存在を幸福に感じられる関係であったはず。だからこそ「強い絆で」結ばれる関係だったはずなのだが、今では、そのような結婚は非常に少ないらしい。
 おそらくは「浅はかな打算」の結果によるもので、そうでなければ現代のように離婚が多い理由にならないと、経験者でもある僕は感じるのだ。

 家族という社会生活もしかり。家族や子供を持たない僕が言っても、薄っぺらにしか聞こえないだろうけれど、なぜ子供達が、我家の犬の所に学校が終わったら一目散にやってくるのかを見ていると、それを考えずにはいられない。子供達は「癒し」というよりも、自分達の「居場所」を求めて、毎日やって来ているように見えて仕方が無いからだ。
 本来なら両親と話すべき内容を「アリスの小父ちゃん」と話をして「救われて」いるような気分を味わっているのかも知れない。家族では無いので一時しのぎの勘違いでしかないのだが、一時的でも勘違いでも「両親」みたいに子供の話をちゃんと聞いてくれる人の所で、今日の出来事を報告して心を整理しているのかもしれない。

 やがて子供達は「アリス」や「小町」を仲介にして自分達と同じ様な境遇の友達を見つけ、そこに「居場所」を感じたら、犬の隣を卒業して行く。その後、子供達だけで遊んでいる最中で寄る事はあっても、しだいに「人の代わりである犬」の存在は不要になっていく。
 とりあえあず、今はそれで良いと思っている。僕にできる事は、それぐらいだ。一時しのぎでも雨に避けられる場所があれば、それだけでも人は歩き出せるものなのだ。おそらく意識はしてないだろうけれど、誰かに見守られて一時的でも救われているのなら、子供達が道を踏み外す事はないだろう。

 子供達に取って、今の家は「お帰り」を言ってくれる人も居ない虚無の場所なのかもしれない。両親の離婚に因って子供達がどれほど心を痛め苦しんでいるか、親は我が身の事だけに気を取られていないで、もう少し考えてあげて欲しい。今の世の中「子はカスガイ」とも呼ばれてもない存在なのだろうか。
 もし、ただの「厄介な荷物」とか「よけいな負担」でしかないと感じているとしたら、将来、必ず子供達から同じ仕打ちを受け「ないがしろ」にされるだろう。その時に子供達を恨むのは筋違いである事は、ちゃんと自覚しておいて欲しいと思う。

 生きて行くだけで精一杯で子供の話も聞いていないのであれば、日常生活を少し考え直した方が良い。なんの為に一緒に生活しているのかの意味を噛み締めてみた方が良い。共に生活するだけで「喜び」と「幸せ」を感じ、一瞬が「宝」と感じられるように、今一度、自分の心を「リセット」した方が良いと思う。
 きちんと自分の心と向き合って、心の声を聞かなければ生きている意味さえ見失ってしまうだろう。

 人も犬も、誰かの中に自分の存在を求めている。一人では生きられない、群れや社会の中でしか生きられない存在であり、誰かに自分の存在が認められた時に、初めて生きている事を実感する生き物である。そこに自身の存在理由を感じ、幸福を感じている部分なのだ。

 だからこそ、自身の存在を否定されたと感じた時に、相手を殺そうと思うほどに憎み、実際に誰彼かまわずに殺そうとしている数多くの事件も根っこは単純で「自身の存在否定」という部分に原因があるのではないだろうかと感じるのだ。それが内に向かえば自殺をえらび、外に向かえば殺人やテロなどの無差別殺人となる。
 いずれにしても「存在否定」の自己投影なので、それを具現化するためには「取り返しの付かない何かを破壊する」行動でしか「自身の存在証明」をすることができないという点で一致している。

 大切な事実は、人と犬の関係とは、互いに依存している訳ではないし、片方の自己犠牲の結果でもないという事。自分が自分らしくある事、つまり人が人らしくあり、犬が犬らしくあることこそが、相手から自分の存在を認めてもらう事に他ならない。
 今、ここに存在している事こそが「喜び」であり「幸せ」である。今を一生懸命に自分らしく生きているという事実に感謝すること。それこそが誰からも認めてもらえる「自身の存在理由」であり、ただ一つの真実である。犬は、それを全面的な信頼という形で飼主に伝えてくれている。

 感謝することを忘れ、簡単に裏切る事が出来るというのも人間という種が持つ「業」なのであろうけれど、それは実の所、感情や本能の囁きではない。「浅はか」に計算された打算や損得勘定の結果であり、人が理性や知性を持った結果でもあるとも言える。
 この愚かさこそが「知恵の実」を食べた人間の「業」であり、一生背負っていかなければならない「罪」。これが「霊長類」であるはずの人間が、畜生にも劣る恥ずべき部分であると言えるだろう。

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