犬は家来じゃない


 僕が思うに「」は「」の「道具」じゃない。ましてや「奴隷」でも「部下」でも「家来」でも無い。残念ながら「家族」でも無い。犬は「」だ。どう頑張ってみても「」には成れないし、話が出来る様にもなりはしない。それでも、大切な「仲間」であるからこそ「」は必要以上に「」に寄りかかっては駄目だと思う。
 同じ家に住むのだから「家族」だ、と言う人も居る。しかし、そうしたら「ルームシェア」や「ハウスシェア」をしているメンバーを自分の家族と呼ぶのだろうか。同居人や居候を自分の家族と呼ぶか。住み込みのハウスキーパーを家族だと、そういった人達は呼ぶのだろうか。

 犬はあくまでも「」であり「」とは異なることを認識し、彼らの習性を理解し、無理に「」に合わせようとせず、きちんと「」らしく人間社会に適合出来る様に指導してあげることと、命の安全を保証をすることが飼い主たる「保護者」に課せられた「責任」であり「義務」であると、僕自身は考えている。
 そのためには「人」は「犬」に対して常にリーダーであり続ける必要があり、それこそが人社会に生きる「群れ」を統率するリーダーに課せられた責任であり義務である。だからこそリーダーには数々の特権や優先権(あくまでも犬目線で見た時の事)が認められているのだと考えている。きっかけはどうであれ、決して「人」の寂しさを埋めるための道具ではないのだと意識しておく必要はあるのでは無いかと感じている。

 それに犬の習性から言っても、犬は人を仲間だと認識しているようだし、人自身も犬を仲間だと認識している方が妙な勘違いや、変な誤解を生まないだろう。仲間であると思えばこそ、互いに相手の自主性や主体性を尊重もするし、配慮もするだろうから、より優しくもなれるのではないだろうか。
 これまでに 70册以上の「躾」や「トレーニング」の書籍に目を通すに付け、これまでに何度となく違和感を感じていた事は、おそらくほとんどの躾の本が西洋から導入されたトレーニング指導を基本としているからだろう。西洋の犬に対する姿勢は、あくまでも犬は人間を助ける使役犬、つまり道具である。人が犬を、人の意のままに自由に制御して操れる事が訓練の基本になっているのだとしか読み取れない。

 どんなに彼ら西洋の動物愛護団体が否定しようとも彼らの根底に流れている犬に対する認識は「神が人を作り、人が犬を作った」という目線なのである。世界中、特に西洋に置いて、およそ 500種類近くもある様々な犬が作出された事実も、基本的にこの考え方が根底に在ったから、生まれた犬の選別も今よりも露骨に行われていたという。
 結局のところ、これこそが「人」が「犬」と正対したときの基本的な姿勢の部分であり、ここの所が全ての基本となって躾や訓練法が出来上がっているというのが僕が受け入れがたい部分なのでもあるが…

 逆に近代までの日本では、犬を人間の都合のいい様に選別する事は無かったという。江戸末期から西洋的な考えか導入され、闘犬に関してだけは人が手を加える事もあったけれども、基本的には元の犬の素質のままで手を加えない事が基本になっていたらしい。
 一番ストレートに出ているのは「リーダーズウォーク」に代表されるものであろう。人の横をぴったりと寄り添う様に歩かせる訓練がある。これを普通の散歩の時にまで強要している本もある。最近では以前よりも声高く言われる事は少なくはなったけれど、犬が人の前を歩くのはアルファシンドロームを増長させる危険性があると、ほとんど大方の本には書いてある。もちろん中には、それを否定する著者もいるが。

 中古本だから出典が古いのかもしれないが、ほとんどの書籍は再版されていてここ7〜 3年以内に出版されているから、それほど古い考えだとも思えない。
 僕自身は、散歩の時に犬を自由に歩かせている。僕の前後左右、犬はリードの範囲内で、あっちに行ったりコッチに行ったりしているが、僕が止まると一緒に止まってくれる。小町を引き取って丸 2年、既に 1年以上の前からリードを持つと先に先にと歩こうとするけれど無理に強く引っ張ったりはしない。例えば、僕が糞を拾う為に止まってたり、リードから手を離したりすると、その場で止まって待っていてくれる。今では、ソレが普通になっているので、犬に引っ張られて散歩したり引き摺られたりしたことは一度も無い。

 元々子犬の頃から「好奇心」の強い性格で、道ばたの臭いに強い興味を示すアリスは、散歩中は夢中で臭いをかぐのでなかなか歩かない。だから僕の前を歩く事はほとんど無い。一方「臆病」で「用心深い」性格の小町は、普通の散歩道では僕の先へ先へと歩くけれど、初めて訪れた場所とかでは必ず僕の後ろに付いてくる。逆にアリスの方が先に行く事が多い。こんな所にも微妙に性格の違いが現れるから面白い。
 小町が先に歩きたがるから、小町が群れのリーダーに成りたがっているかと言えば、そんなことは全くない。相変わらず、小町はアリスの下の地位にあり、僕の上に立って群れを率いる気もサラサラ無い。今の位置に十分、満足している様子である。そりゃ、毎日の食餌はきちんと与えられている訳だし、群れを守る責任ある立場上、四六時中、神経を尖らせておかねば成らないのは勘弁して欲しいと思っている事だろう。

 だからと言って、僕と二匹の関係が「主従関係」にあるかと言うと、そんな所も無い。二匹とも、僕と一緒に歩く時は、ただ単に自分の安全の為にも僕に添っていた方が良いと考えているだけのようである。近所の山やドッグランに行ってリードーから解放したりすると、それぞれに自分の身は自分で守る意識がちゃんと備わっている。
 アリスも小町も、それぞれがしっかりとした自己を持っており、僕という飼主(=保護者)べったりと依存している訳じゃないことは、日頃の行動でもそれが判る。彼らは自分の意思を持って、好きで僕の側に居るとしか思えない。

 アリスは臭いを追って、目の届かないどこかに行ってしまうが、ある程度の時間が過ぎたら、きちんと集合場所(車の在る場所)に戻ってくる。
 仮に、僕が車でどこかに行ってしまっていても、気が済んで戻って来た場合には、その時に車が元在った場所にきちんと戻って来て待っている。例えば小町を引き取る以前に、友人の家に行ってアリスが離れてしまった時がある。追いかけると逃げるし、待ってても戻ってこない。晩御飯の時間が過ぎても戻ってこないので、仕方なく僕ら二人が食事に出かけて、戻って来た時に友人宅の駐車場で待っていたアリスの姿を見た時、友人の驚きを想像して欲しい。ビックリするやら、感心するやらで、今でも語り草である。

 一方の小町は僕の傍らから離れようとはしない。常に、僕の視線の届く範囲にいるから、僕が必要に応じて呼び戻せば、ギリギリ姿が見えるくらいに遠くにいても必ず戻ってくる。
 特に教えたつもりも、厳しく訓練した記憶も無い。仮にアリスと一緒に外で解放しても、アリスと一緒になって視線の届く範囲でウロウロしているけれども、アリスと一緒に姿が見えなくなる程どこかに行ってしまう事は無い。野山をノーリードで歩く際も、大体は僕の先を歩き、道の曲がり角で姿か見えなくなっても、僕が追いついて来るまでその場で待っている。

 元々、犬は人よりも姿形の異なる様な他者に対しても非常に友好的で寛容な性質を持っている。余程の事が無い限り、犬同士で喧嘩をする事は無い。ただソコに人が介在すると、犬は本意では無くても喧嘩をする事が在る。
 闘犬等、その最たる物であろう。犬が自ら好き好んで喧嘩をしている訳ではない。前もって絶食させたり、棒で突ついたり、ストレスをかけてイライラさせておき、あの手この手を使って直ぐにブチ切れて怒る様にしむけている。そのため小町もただ「秋田犬」というだけで、相変わらず初対面の人からは「喧嘩っ早くて、直ぐに噛む犬」と誤解されている。彼らにしてみれば、まったくもって迷惑な話だろう。
 

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