今日は「アリス記念日」

 8年前の今日、知人の家で夏に生まれた子犬を頂いて、我が家に連れて帰って来た記念すべき日である。
 子犬が「アリス」という名前に落ち着くまでには約 10日間程の時間を要した。第一候補だった「ハッピー」も「福」も、当時知り合いだった「おばさま」達から、よってたかって拒否権を発動されてしまったものだからね〜
 僕にとってアリスが正真正銘、初めての犬。どうやって育てるのか、新書で 2冊。中古本で 30冊以上、図書館から数冊、それこそ「犬に関する本」を読みあさる事になる。

 実際の所「アリス」を飼う事が無ければ「小町」を引き取る事も無かっただろうし、犬や猫などの動物が好きでも結局はソレだけのことだったろう。
 動物には本能以外にも意思、感情、思慮、愛情があるってコトも、頭では判っていても本当に身近な問題としては理解して無かったと思う。
 口先で理想的な美辞麗句を並べながら、ギリギリの局面に立った時は「人優先で動物が犠牲になる事は已む無し」という人間中心の本心が占めて居た事だろう。

 歳を重ねて行けば、やがては気がついたかもしれないけれど、こんなにも早い時期から「命あることに感謝する」と思う事も少なかったかもしれないし、来るべき「」に恐れを抱く事も無く「今を生きている事を素直に喜ぶ」事も無かったかもしれない。全くもって「目を逸らさず死を見るめる」なんて簡単に言えるけど、かなりのエネルギーを必要とする物だって事も気づかされた。
 常に「死」を意識する事、ソレを気がつかせてくれた事、恐れる事も無く考える機会と、ゆっくりと考える時間を与えてくれた事に感謝したい。おそらくアリスを飼う事が無ければ、こんなにも早くに手に入らなかった事だから、どんなにアリスに感謝しても足らないだろうけれど、おそらくアリスは「気がついた貴方自身に感謝しなさい」と言うのだろうな。

 そして「命ある事に感謝する」のを意識するようになってからは、以前の様に「殺し」て「食べる」という事実に対して罪悪感を持たなくなっていた。僕自身が自分の命に感謝するっていうことは、とりもなおさず僕という肉体を生きながらえさせる為に「命を亡くした」生き物への「感謝と畏敬の念」を持つってことだったからだ。
 その個体が持っていたであろう「意識」や「記憶」等は無くなってしまうのかもしれないけれど「死ぬ」という事が、直ちにそれで「全てが終わり」と言う事には続かない。

 分子レベルや原子レベルに分解されて僕自身の肉体を構成する因子として再構築される。もう少し大きな単位になれば「アミノ酸」レベルでも僕の身体の中に取り込まれて「僕と共に」生き続ける「命」も有るはずだと考えれば、全てが無くなってしまう事にはならないとも考えられる。
 そういった意味では「命の襷」あるいは「命のバトン」を引き継いだだけに過ぎないと考えられるだけで、自然と受け継いだ者としての「責任と義務」が生じる訳だから「夢々、自分自身の命を蔑ろにしてはならない」という結論に至にはさほど時間はかからなかったから。

 そのように考える様になってからは「命在る、こそ奇跡」とも思える様にもなって、自分自身の存在意義についてもあれこれと悩む事も少なくなった様な気がする。
 例えば「有意義な人生を送らねばならない」とか、金持ちになって「社会に還元しなければならない」とか、後世に「名作と呼ばれる作品を作り出さねばならない」とか、そういった事が「出来るか否か」が全てで、ソレが出来なければ「生きている意味が無い」とか、そういった類いの思いに捕われて「自分には価値がない」とか考え悩む事が無くなった、とも言える。

 それに「命のレベル」で言ったら、僕もアリスも大して変わらない。もし僕が、誰かに「アリスには価値が無い」等と言われでもしたら、僕は腹を立てるだろう。
 以前の様に「烈火の如く怒り狂う」事は無いにしても、自分の中に芽生えた「怒り」や、そういった価値観に囚われている相手の心を「赦す」ために、静かに目を閉じてため息をつくぐらいはするだろう。

 それに、もし僕がソレを認めてしまったら、従兄弟の子供の存在を否定する事になる。もう既に十数年にも渡って「生まれながらに障害を持つ子供」の世話を続けている従兄弟の存在までも否定する事になる。
 けれど「命こそ奇跡」だと意識する様になってからは、これまで僕自身が長い間、彼らに抱いていた「哀れみ」の感情さえ無駄なことだと気づかされた。元々、そんな感情など持つ事も必要も無かったのだ。

 生きる事に意味や価値や目的は重要な事では無い。ただ自分自身、そしてソレ以外の「全ての命に感謝」するだけで良い。「私達は愛されている」ただ、そう言って「命」に感謝すれば良いだけだったのだ。

 

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