誤解してないだろうか?

IMG_0667 「責任には自由」が、「義務には権利」が、コインの「表と裏」の様に必ず付いている。なのに、責任を放棄して声高に自由を叫ぶ者。義務を果たさず権利だけを主張する者。いずれも社会が壊れている証拠では無いだろうか。
 これらを勘違いしている人の多くは、これらの言葉を逆にしている人達。つまり「自由には責任が伴い」「権利には義務が生じる」と覚えている方々である。似てはいるが意味は全く逆なのである。

 責任ある行動が取れるからこそ、自由に振る舞うことが許される。自分が起こした結果に対して全ての責任が取れる者だけが、その取れる責任の範囲に於いて自由に行動できる。
 例えば、幼い子供が自由に振る舞えないのは、自分が起こした行動に対して責任が取れないからであるし、その責任は子供の親が取るため、子供は親の監視下に於いてしか行動してはならないのである。

 保護者として動物の命に責任を持てる者にだけペットを飼う資格、つまり飼える自由がある。一緒に散歩したり遊ぶ覚悟があれば「犬」を飼えるし、散歩は嫌だが規則正しく餌を与えるだけ出来るのなら「熱帯魚」を飼えば良い。自分が負える責任の範囲で自分に合った動物が、ちゃんといる筈だ。自分への「」を求める一方で、簡単に「飼育放棄」をする飼主があまりに多くいるような気がする。
 最低限でも、命に対する責任を負えないのであれば、動物はおろか家族を持つ事等さえ諦めてもらわなければならないだろう。

 我侭で傍若無人な者に対して「自由」を与える人はいるだろうか? もし、本人が自ら引き起こした問題に対して責任も取れない者に「自由に振舞って良い」と告げたものが責任を取るべきであり、その者が居なければ親が責任を負う必要がある。必ず、何らか問題を起こしたならば、それに対する責任を取るものが必要なのだ。人は、自分が取れる責任の範囲に於いてのみ自由が認められている。
 権利も同じ。始めに、その者が義務を果たしているからこそ、その者に権利を与えられる。元々「義務」をはたしているからこそ「権利」を主張できるのだ。そもそも前提として「権利を主張」して「義務を放棄」しているという現象はありえない。ここら辺を勘違いしている人が、あまりにも多いような気がする。

 世の中基本は弱肉強食。ただし、それだけでは弱いものは生きていけないので、力のないもの家族間で協力し合い、いくつかの家族が集まり群をつくり、力には群れで対抗しようとする。能力もなく、努力もせず、勉強は嫌だと学校にも行かず、親や親類付き合いが面倒だと、家を飛び出した者が生きていけるほど甘くはない。さも当然な顔をして受け取るばかりで、誰にも何も与えようとはしない輩達。流れが滞り、停滞し、淀むのが悪いとは言わないが、それが諸悪の根源であるのは、何も病気だけとは限らない。
 もともと人間に限らず、生きとし生けるものは何らかの社会に属して生き延びてきた者だから、自ら望んで社会から断絶した者、社会の最小単位である家族が崩壊した者までも面倒を見ようとするのは余計なお世話というものではないのか。

 一時的な快楽を選んだ結果、窮地に落ちたからといって世の中に絶望した者がどこで野垂れ死にしようが関係は無いだろう。確かに、自暴自得を世の中の仕組みが悪いと逆恨みして、無関係な者を傷つける行為が多いのも事実だけど。
 働く気も無く、それまで散々「酒」や「タバコ」さらに「パチンコ」や「競馬」等のギャンブルで散財しておきながら、自業自得で「生活保護」を打ち切られたからと逆上して窓口担当者を脅すとか言語道断である。本来なら生活保護は「貸与」であるべきなのに、何を勘違いして「給付」等と馬鹿な偽善者が決めたからなのだろう。

 盗みを働いて刑務所に戻りたがる人間が後を絶たない理由は何だろう。ある意味、彼らは、住処、食事、衣類まで与えられてぬくぬくと暮らしているわけだ。彼らに言わせれば、世間の風の方が冷たい訳だが、その大半の理由は自業自得であるのに、彼らは自分の所作の責任さえ取ろうとしてない。「罪を憎んで人を憎まず」とはいうが、だからと言って「責任」から解放されるわけではない。当然「償い」はしなければならないのだ。そんな「当たり前の事」からも逃げいているから憎まれ続け、いつまでも糾弾されるのだ。
 もともと子供の教育と躾を他人に任せ、自らやって来なかった親の責任であるはずなのだが、家族間でも責任も取れない救いようの無い者を、なぜ赤の他人である我々が面倒を見なくちゃいけないのか?

 もはや、この世の中は、罪人を飼っていられる程の余裕は無い。罪人にも罪を償う意味でも、独房等に押し込めて本とかを与えておくのではなく、働いて自分の食い扶持や住処の分は働いてもらわなくては成り立たない瀬戸際まで来ているような気がする。
 義務をきちんと果たしている者だからこそ、その引き換えとして権利を獲得する。お金を支払ってサービスを受けることと同じ。決してタダでサービスを受けられるわけではない。受信料を支払いたくなければテレビを持ってはならないし、住民税を払いたくなければ住んではならない。税金を払いたくなければ社会保障や福祉を受けてはならない。年金を払いたくなければ年金を受け取ってはならない。そういうことである。

 今のところ自分自身は、一番多い時でも年間 60万未満の所得しか無いので「所得税」は無理 (それでも 2万円弱は勝手に取られて戻っては来ないけれど) でも生活費を節約し、それでも足りないから少ない貯金を切り崩しながらも、なんとかきちんと「住民税、固定資産税、健康保険税、自動車税」及び「国民年金保険料」を、滞納もせず収納している。
 そういった苦しい中からも、きちんと「義務」を果たしている我々「納税者」を置き去りにして、いつから日本は自分の面倒も見れないような人間を飼って置けるほど余裕のある生活が出来るほど裕福になったのだろう。

唯吾知足jpg この世の中で少しでも「楽をして暮らしたい」と考えているならば、昔から変わらず「地獄の沙汰も金次第」と同じで、必ず他人、即ち社会と関わって過ごさねばならないから「この世の沙汰も金次第」いう状況は変わらない。
 それが嫌ならば、日々を「唯吾知足」の境地で生活するしか方法は無いだろう。本来なら、それこそが一番自然でストレスとは無縁の生活を手にするの事が可能になるのだけれども、多くの人にとって「命に感謝する」それだけの事が本当に難しいらしい。

 彼らは「無自覚」でありながら、毎日のように「自分の外に居ると思っている他者」に対して「愛じゃ食えないから別の物をよこせ」と声高に喚き散らしながら叫んでいる訳である。
 自身は既に愛で満たされているにも関わらず、意図的に気づかないふりをして「別の何か」を求めている。ただ「感謝」するだけで、身も心も救われるというのに、既に自分の中に「満たされ溢れている愛」だけは、どうしても認めようとしない。

 そんな彼らは、例え死んでも本当に「満たされた」と感じることは無いだろう。「クリスマス・キャロルの奇跡」は起きないってことだ。
 彼らはエンディング直前でゲーム機を自らリセットして一番最初からやり直すことと同じことをする。つまり転生輪廻して自ら列の一番最後に並び直し、繰り返し繰り返し何度も最初から人生を楽しみたい (苦しみたい) ってことなんだろう。

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