19回目の誕生日

 今日 3月 23日は僕の唯一人の息子である芳明の誕生日。とは言っても 9ヶ月目の時点から会った事は一度も無いので、今も生きているのかどうかは分からない。
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 あえて調べてみようとも思わないが、もし生きていれば 19歳になっている筈だ。そして来年になれば 20歳の成人だという。今更ながら、本当に月日の経つのは速いものだと、しみじみと感じるね。

 ご先祖様から僕の身体に伝えられた遺伝子の一部を持つ、自分の息子に伝えたかった事。彼の体と心、存在の全てに対して「愛している」という気持ちだけ。元々それだけのためだけに 3年前に始めたブログ。伝えたい事が本当に伝わったかどうかは分からないし、そもそも彼はココを知らず、未だに読んでもいないかもしれない。それでも全然構わない。それも縁だろう。
 それも、あと 1回、来年までだ。その後の事は、またその時に考えよう。ブログ自身は 1年後だろうが、それ以降だろうが、一応「アリス」と「小町」が死ぬまで続ける予定だとしても、改めて「息子へ宛てたメッセージ」の形で書くことは無いだろう。もし有るとしても「遺言書」の時くらいじゃなかろうか。

 当初から「誕生日のプレゼント」のつもりで始めた「息子へ宛てたメッセージ」は、彼が成人する 20歳の誕生日までと決めていた。だから今回を含めて残り 2回、これこそが僕が僕自身に課した責任と課題だった。
 なんだ「単なる自己満足のためか」と言われても言い訳はしない。所詮どんな美辞麗句や綺麗事で飾ってみても、結局は「僕自身が後悔しない様に生きて行く」事の一部に過ぎない。成人し心身共に大人になった後は、誰に何かを言われたとしても、彼が自分自身の価値観で判断すれば良い事だ。

 何を信じ何を心の拠り所にどんな判断をして生きて行こうとも、それは彼自身の決めた生き方なのだから、僕から息子に対して四の五の言うツモリは毛頭も無い。元々、彼が生まれた日から彼の人生に手助けはしても口出しはしないと自ら心に誓っていたのだから。
 だから、もし彼が今、僕を殺したい程に憎んでいたとしても、それはそれで構わない。おそらく何も知らされていないか、あるいは罵詈雑言しか聞かされてないだろうから、僕と言う存在に関しては完璧なまでに無関心だと思うけどね。

 一応、彼が成人するまでは父として彼の保護者になるつもりでいたけれど、その後の彼の人生の責任まで負うつもりは無かった。途中、彼が迷っていたとしたら、その都度に必要な助言や忠告はしても、僕自身の希望や期待は伝えるつもりは無かった。
 人としての道に外れない限り、彼自身が決めた選択を優先させる予定でいたし、彼が自ら考えて選んだ事なら無条件で応援するつもりでいた。僕が想い描いていた未来は、彼が 9ヶ月になった時点で取り上げられてしまったけれど、祈る事だけはずっと続けて来た。

 彼を失った事で、その後の僕自身の生き方は大きく左右されたかもしれない。ただ、僕が「守るべき家族」を失った事で、結果的に僕は僕自身を失わないで済んだ。そんな気がする。
 したかった「冒険」をして、結果的に、今は「冒険」が失敗に終わってるかもしれない。けれど「後悔」はしていない。お陰で、ある種の満足を得ることが出来たわけだし、もしかすると何時迄も胸の奥で燻り続けたかもしれない火種を、抱え込む事が無かったわけだから、僕は妻だった女性に感謝すべきなのだろう。「よくぞ僕を自由に冒険させるために、息子を連れて部屋から出て行ってくれた。」と、御礼の言葉の一つも添えて伝えるべきなのだろう。

 そういった意味で彼女は「鬼」には成り切れなかったのかもしれない。僕を生かさず殺さずの状態にして生き血を吸い続ける、あたかもドラキュラタガメみたいにはなれなかったと言う事だ。その意味では、まだ善良な人だったのかもしれない。結果的に、僕を詰る事で、罵倒し別れる事で、僕を殺すこともなく僕を自由にし、本来、僕が負うべき責任から解放した訳だから。
 僕自身が自らの心を封じ込める事もなく、自分の可能性に向かって羽ばたける機会を与えてくれた。あのまま齢を取った時に口にしたかもしれない「もしも、あの時…」という後悔の言葉を発する機会を消してくれた。チャンスをくれた事実。結果として僕は僕自身が死ぬ前に後悔する様な「別の人生」を歩かないで済んだのだ。

 僕にも「後悔しない生き方」と「幸せな家庭」の 2つとも手に入れて暮らすという可能性もあっただろうけど、誰の目にも余る様な「陰湿な嘘」を、平気な顔して口に出し続ける人と暮らしを共にする事は、結局は長続きはしないし不可能な事だろう。おまけに今の窮状みたいに、僕が冒険した結果、それが成功しなかった時の苦労を考えれば、先に別れていた方が傷は浅くて済んだのだし、仮に一時の間だけだとしてもグチグチと、なじられ続けられずに済んだ。それだけでも感謝すべきだろうな。
 僕自身は「これで終わった」とは全く思っていない。自分への信頼も、自身の可能性も、捨てきれない夢もある。僕は今年 53歳。平均寿命まで 30年も残っているんだから。お楽しみは「これから」である。

 仮に今でも僕に家族がいたら、こんな考え方はしてなかっただろう、それは間違いない。そういった意味では本当に僕は幸せ者である。例えば、こんなふうに考え方を変えたなら…
 僕を本来のあるがままの僕でいられる様に、僕の心を自由にするために妻子が僕の足かせにならないように、女は子を連れて自ら身を引いたのかもしれない。と、いう風に。

 そんな表現に替えたなら、僕らの離婚は「美談」となる。僕の中では、その方が幸せだし、考え方一つでコインの表と裏。考え方で、その後の生き方が 180度変わるのなら、幸せになる方を選びたい。
 そこに「コインが有った」と言う事実は変わらないけれど、同じ時を過ごすならば、人を呪いながら生きるより、人を祝福しながら生きたい。

 不思議でもなんでもない事だけど、人を呪い続けるには自分のエネルギーを大量に浪費するが、人を祝福してると逆に人からエネルギーを大量に受け取る事ができる。
 仮に苦労しても、それに不満を抱かずに、喜びを伴って感謝する事を覚えると、実体験という他では手に入らない掛替えの無い「至宝」を手に入れている事に気が付くだろう。

 例えば、仕事は「やらされている」と考えている間は何ひとつ身に付くことは無く、結果、虚しさしか残らない。自分を悲劇の主人公に仕立て上げ、ただ愚かにも愚痴と不平と不満だけを垂れ流す存在にしかなれない。人の欠点だけが目につき、回りの全てが自分の足を引っ張る敵にしか見えなくなるだろう。
 ところが仕事に「感謝する」事で、そこから学び、互いに助け合い、分かち合う中で、かけがえの無い友が現れ、環境が自分の心と身体を鍛え、結果として達成感と喜びと共に正当な対価としてお金を頂き、満足と幸せを得るコトが出来る。

 人を羨んでも、蔑んでも、妬んでも、恨んでも、憎んでも、呪っても手にする物は虚空でしかない。批判だけしてて、何かが手に入る訳でもないし、別の誰かに評価される訳でも、感心される訳でも、感謝される訳でも無い。
 残念ながら、最初から何もかも全てが与えられているコトなんて夢の様な話は「お伽噺の中」にだって無い。仮に背中に羽があったとしても、一足飛びにゴールにはたどり着けはしない。歩くか、走るか、跳ぶか、羽ばたくか、何れにしても、ひとつ、ひとつ、その時々の自分が持ってる力に応じて手に入れるしかないのだ。

 僕の息子に不毛な人生を歩んで欲しくは無い。が、どの道を進むのかを選ぶのは彼自身だ。僕には、彼を見守る事も、手助けする事も、直接、何かをしてあげる事など、一つも有りはしない。
 僕にできる事、昔も今も未来(これから)も、彼自身にある命の光に祝福を送り続け、今ここに在る僕の命と僕自身を取り囲む全ての命の煌めきに感謝しながら祈ることだけである。

 「ありがとう」「愛している」「大丈夫」

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