愛犬を信じて…

 今年最後の記事は「僕自身の願い」で締めくくろう。DSC_7897

自信を持って見守ろう。

愛犬家になろう(その7)

 他のだれでもない自分自身が多くの時間をかけ沢山の愛情を持って自分の飼犬を育てたのなら、育てた自分自身を信じることで愛犬の行動を見守ってやること。それこそ、飼犬が人社会に受け入れられる重要な試金石では無いかと、僕は考える。

DSC_8066 逆を言えば、日頃からの自分と愛犬との関係に自信が持てないのであれば、愛犬を解放したり人混みの中に犬だけを放置してはならないと思う。
 日頃から愛犬の様子を観察し、この程度であれば大丈夫だと自分が判断したならば、そこから少しづつ徐々に慣らしてあげれば良いのではないだろうか。
 そのためには飼犬を甘やかすだけではダメだし、自分の中にある恐れや恐怖心を愛犬の回りに投影し、必要以上に守り過ぎてもダメだと思う。

 何より過保護は本当にマズイと思うし、飼主の恐怖心は飼犬に伝搬するから、折角の飼犬自身が持っていた好奇心の芽を摘み取ってしまう事になる。
 つまり過保護は、一見愛犬を大切にしているようで実は飼主自らが飼犬の可能性の芽を摘み取ってしまっている、愛犬の性格を破壊する行動なんだと言い切ることができる。

DSC_7949 どんな犬でも仔犬の頃に限らず、成犬でも「初めて見るモノ」に関してはとても臆病で用心深くなる。
 体の大きさは無関係。知らないという事は、もうそれだけで怖いモノなのだ。
 知ってみれば何ということはないことであっても、知らない間は、ずっと恐怖の対象である。
 人であろうが犬であろうが、体験する機会を奪われてしまったら「恐怖を克服」する事は出来ないのは同じだ。

 例えば、子供の頃に犬を見たこともなく大人になった人が、小町みたいな犬を見たら何を考えるだろう。同様に、子供の頃に犬に吠えられたり、追いかけられたり、噛まれたりしたまま大人になった人は、犬に対してどう考えるかは想像に難くない。
 逆に子供の頃に犬と無邪気に遊んだ記憶がある人が、同様に犬に吠えられたり、追いかけられたり、噛まれたりした場合、どう対処するだろう。大人になった時、犬を見た時に、なんと思うだろう。

 少なくとも僕の場合、子供の頃から何度も犬から吠えられたり、追いかけられたり、噛まれた体験を持つけれど、だからと言って犬を怖いとか、嫌いになるとかはなかった。単に人と同じで良いのも居れば悪いのも居る。犬にも色々な性格を持つものがいるという認識に変わっただけだった。
 人も犬も、自身が過去に体験した記憶を元に、情報を整理し判断する事は変わらない。人には他人の経験や体験を情報として自分のモノにできる知能があるけれど、残念ながら人以外の動物には自分自身の記憶や体験しか頼るものがない。だから、その機会を奪われてしまったら、一生それを知る術が無いことになる。

 何時まで経っても「知らない」事には変わりがないから「恐怖」が無くなることはない。成犬になれば自然に収まるだろうなんて都合の良い事なんて絶対に無い。ますます恐怖を募らせ怯えは激しさを増すだけだ。
 残念ながら飼主の意識が変わらない限り、飼犬の持つ恐怖が消える事は二度と無い。それ故に飼犬の問題行動は、おそらく一生解決することはない。恐怖を克服でない間は「いつまでも怯え続ける」ことになってしまう。そんな犬の場合「いつまでも吠え続ける」という結果になる。諺にもある通り「臆病な犬ほどよく吠える」と言うのは事実なのだ。

 だからこそ飼主の意識改革が重要で、飼主自身が飼犬の持つ無限の可能性を信じ、自ら色々な事に積極的に関わって飼犬に色々な事を体験させてあげて欲しい。
 先日も散歩中に言われたように、未だに危険犬種だと誤解されている「秋田犬」の本質も、このように見も知らぬ小さな子供達に囲まれてもジッとして、されるがままでいられるほど大人しい愛すべき犬だという事を、どうか理解して欲しいと願う。

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