狗には狗なりの智恵がある

 アリスと小町の一体どちらの方が賢いかと言えば、それは間違いなくアリスの方だろう。しかし、それは飼主である僕から見た一方的な判断であって、実際「イヌ」としての智恵は、どちらが本当に優れているのかは判らない。 これは 2月の 13日の金曜日、僕らが高岡温泉「やすらぎの郷」に行った時の話である。

 独り身の僕は、日頃から湯槽に浸からずシャワーで済ますことの方が多い。沖縄で暮らしていた学生の頃からの習慣で、当時の学生寮には湯槽はなく 4年間、ずっとシャワー生活だったからだ。
 それにすっかり慣れてしまっているというのもあるし、一人で浴槽に湯を張るのは水道・光熱費が勿体無い気がして、もうずっと何年もの間にそんな生活が身についてしまっている。

 それでも時々、大きな湯槽に浸かって伸び伸びと手足を伸ばしてゆったりとしたい時がある。近場に「銭湯」があれば勿論それに越した事は無いのだが、今の日本国内には古き良き時代の「銭湯」は消滅して久しい。そんなこんなで車で 15分で行ける「高岡温泉」に時々出かける訳である。
 もちろん単に広い風呂に入りたいだけであればエースランドの「極楽湯」か、マリックスホテルの「パウパウ」の方が家からは近い。僕でも「温泉」と「犬との散歩」がセットで無ければ、おそらく近所で済ませている。

 今回も温泉に入る前に 2頭の飼犬と一緒に「瓜田ダム」湖の周りを散歩した。これは、その時に起きた「ちょっとした出来事」である。 ダム湖を半周ほどした所で、小町が自からの意思で湖の近くで僕と離れ、いくら呼んでも知らん顔して、その場所から動こうとしない。アリスの方は最初は小町と一緒に居たけれど、すぐに他の別の方に行ってしまい、その後、僕が呼んだら僕の方に寄ってきた。
 普段であれば「小町」は「アリス」の真似をして「アリス」の後を付いてさるくのだけれど、この時は何度「小町」を呼んでも知らん顔、一向に付いて来る気配がない。僕とアリスはいつも通りに周遊道路の先を進み、とうとう最初の出発点である駐車場まで戻って来てしまった。

 駐車場に戻る途中で対岸を見ると、小町は周遊道路まで戻って、そこに座ってじっとしていた。対岸から呼ぶと僕の声に気がついたが、声の聞こえた方に真っ直ぐ進もうとしたのか再度、湖の方に降りて行ってしまった。
 駐車場に着き、そこでアリスに水を与えたりしながら再度対岸を見てみたら、小町は道に寝そべって動こうとしない様子。仕方がないので車で迎えに行くことにした。

 とりあえずアリスを捕まえて車に乗せようとしたら「小町がいないのに、何で自分だけ?」と思ったのかどうかは分からないが、とにかく逃げ回って車に乗ろうとはしない。仕方なくアリスを駐車場に放ったらかしにしたまま、先に小町を迎えに行った。
 小町は近づいた僕の車には気づいてても、僕が車から降りて近づくまでは、その場所から動こうとはしなかった。とにかく彼女の頭の中では、はぐれた原因が自分であろうとなかろうと「はぐれた所で、じっとしている」というのが迷子になった時の対処方法らしい。

 駐車場に戻ってきたら、今度はアリスの姿がどこにも見当たらない。小町を車から降ろし毎回歩く残りのコースを進み始めて、途中でアリスを呼び寄せてみたら、ごく自然な体でアリスは僕らのいる場所に現れた。
 アリスの方は僕とはぐれても、自分で判断し僕の臭いを探して僕の居る場所まで来ることができる。小町だって犬なんだから臭いを辿ることが出来るはずなのに、そんなことはしないで、僕が探しに来るのを待っているだけだった。この 2頭の行動の違いは、一体何のだろう。

 それは単に、アリスの方に長年の「歳の功」が有る。とか、数年間の「経験値の違い」では判断出来ない何かが有る様な気がしてならない。 この場所には何度も来て歩いているから、小町にとって初めて来た場所では無いし、迷うような場所でも無い。小町が全速力で走ってくれば僕らの待つ駐車場まで数分で到着できると思うので、それほど大変な事とは思えない。
 それなのに、敢て「別れた場所で待つ」という行動を取るのは「必ず飼い主が迎えに来てくれると信じて疑わない」と言うより、そうした方が「互いが行き違いになったりしないで間違いがない」と考えている風にも見えた。

 アリスは山に行くと、自からあっちこっち変な所に行ってしまい姿が見えなくなることがよくあるが、彼女は自分で駐車場まで戻って、そこで待つという行動を取る。小町の様に「別れた場所で待っている」なんてことは無い。
 今回、アリスも小町も、いずれも自から僕の側を離れて「勝手に自由行動をした」後、僕の姿を見失った際に取る行動の違いである。その「本能」としか呼び様のない行動の違いが、これほどまで 2頭の犬の間で、それこそ見事なまでに両極端であるのも不思議な事である。

 それは長い間に人により作出された、それぞれの犬に与えられた性質が、そうさせているのかもしれないし、蓄積された祖先の経験が未経験の出来事に対する判断材料、すなわち「本能」に成っているのかと、そう考えなければ説明の付かない事がある。
 例えば「飼主と別れた場所で待つ」と聞いて思いつくのは渋谷駅の前で待ち続けた「忠犬ハチ公」の話が有名だけど、そうすると「秋田犬」とは元々そういった性質を持った犬種なのだろうか?

 もしも僕が感じた事が「そうである」と仮定するならば、どうやら本当に「固体の体験」で、あっても「生存に関する重要な情報」は「遺伝子レベルで子孫に伝えられる」ものらしい。
 若干、自分自身でも短絡的な考察ではあると感じるけれど、そうすると DNAや RNAの、どの部分に、その様な情報を書き込むのかは解らないけれど、どうやらそんな事らしい…

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