家族という絆の脆さ

 言葉という物は「魔物」だ。言い方ひとつでイメージが変わる。使い手に深い意図はなくても、善くも悪くも言葉が持つ印象に左右されてしまう。
center あくまでもこれは僕自身の個人的な印象なのではあるが、飼犬の事を「家族」と呼ぶ人に対して非常に強い違和感を感じてしまうのだ。

敢えて僕は「大切な仲間」と呼ぶ

大塚わんわん倶楽部(その2)

 たまたま僕の周りに居て、そう言ってる人の飼犬の大半が、おやつの与えすぎで誰が見ても明らかに太りすぎであったり、甘やかされ放題で飼主にも噛み付く犬であったり、犬同士の社会化に失敗して他の犬に吠えてばかりいる犬だったり、「おすわり」や「お手」は出来ても「待て」は出来なかったり、いくら呼んでも戻ってこなかったり、首輪や胴輪を着けるのを嫌がっていたり、家族以外の人には牙を剥いて唸っていたり、全く落ち着きが無いように見えたり、そういう飼犬が多かった様に感じる。
 飼犬を、まるで人間の家族の様に扱うと言いながら、その一方で「躾」など必要ないと言わんばかりの方が多かった様に感じたし、暗黙に「自分の家族なんだから自分が好きな様に扱っても良くて、それに他人が口を挟む権利は無い」とでも言いたげな雰囲気が感じられた。

 僕が感じる違和感というのは「家族」の間であれば何でも許されるという雰囲気。そして「家族」以外の者に対する冷酷さ。それは「家族」から「家族ではなくなった」者へ対する切り捨て、あるいは気持ちの切り替えの早さでもあるように感じる。
 それ故に「喜びも苦しみも一緒に暮らしていた家族だから分かり合える」という前提に根ざし、いとも簡単に「家族を犠牲」にしながら、それを簡単に「美談」にすり替えてしまう怖さを併せ持つ。例えば「この子なら、きっとウチの事情を察して私達を許してくれる。」と言う言葉に変え、本人達は僅かな罪悪感さえ感じていないことの「そら恐ろしさ」である。

 小説の粗筋でも、遺産が絡んで仲の良かった親子や兄弟間で骨肉の争いが起きるなんてことも良く目にする物語だが、互いの利害関係が絡めば簡単に家族の絆など切れてしまうのは何も絵空事の話だけではない。その事は、新聞やネットの記事で割と頻繁に目にするという事実がある。
 同じ様な小説の中で、自分の取った行動と結果が同じでも「家族」と「仲間」では感じる事が異なる。「仲間」に対する場合には、後味の悪さを抱える事になる訳だ。つまり「仲間」同士の間には互いに「掲げた目標を達成するため、一緒に力を合わせて協力し合う」という平等な義務と責任が存在する。それが「仲間」という言葉に対する僕の持つイメージだ。

 元より血のつながらない「仲間」同士の場合、もしも誰かを意図的に犠牲にして生き延びた場合、必ず生き残った者は何時までも犠牲者の信頼に対し「裏切り」で返した事に「後ろめたさ」を覚えているという話が多い。
 だからこそ血もつながらず同種族間でさえない飼犬との関係に、僕は敢えて「大切な仲間」という表現を用いている、その理由だ。

 因みに僕がアリスと共に暮らしだしてから聞いた一番気分を悪くした話は、それまで飼犬の事を家族と呼んでいた一家が関東への引越しを理由に、いとも簡単に 5歳くらいの飼犬を保健所に連れて行ったという話である。持ち込まれたスピッツ系の顔をした中型の雑種犬はその日のうちに殺処分されたと言う。
 当時はまだ、保健所に飼主が持ち込んだ犬の場合、当日のうちに処分されるのが通例だったのだそうだ。飼主に見放された飼犬の命は、まるで燃えるゴミの様に簡単に捨てられていたのだろう。

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