災害時に飼犬と(その2)

 自然災害は自らの生死をかけた生存競争だが生死を分ける出来事は、もはや幸運とか不運としか呼びようがない。何が悪い訳でも無い。その時に誰かに助けてもらおうなどとは最初から当てにしていない。
4 何はともあれ「生き残ること」これに尽きる。それも僕の場合、必ず「飼犬と共に生き残る」こと。そうでなければ意味が無い。

共に生き延びる。

非常事態に備えて(その2)

 ただし、誰かを犠牲にしたり、何かを見捨てる事で生き延びたとしても、負い目を引きずって生き続けるくらいならば、助け合って共に生き延びるか、一緒に死んでしまった方が自分に納得できる。
 かと言って見知らぬ誰かのために自らを犠牲にしてまで助けようとは思わない。僕はヒーローぢゃないから先ずは自分の身の安全を確保し、なお心に余裕があるならば人助けもできるだろうが、それを約束できる自信は無い。

 自分の安全も確保できない状況下で無我夢中の状態の時では、身内の誰かであればまだ気にもするだろうけれど、赤の他人を助けてる余裕など、とても無いと思う。
 自分が出来もしない事を他の誰かから、して貰えないからと言って、それを恨んだり呪ったりするつもりはない。

 もしもその場に居合わせたら、とにかく「生きるために努力を惜しまない」事だけを誓う。精一杯、自分自身が生き残るために、とにかく足掻いてみる。それを無駄な行為だと諦めてしまわない事、ただそれだけを誓おう。
 それでも、生き残るために誰かを犠牲にするなら、自ら犠牲になる事を選ぼうと思う。誰かを殺して生き延びるくらいなら自分が死んだ方がまだマシだと考える。もちろんギリギリまで自分も共に助かる方法を考えるけれど。

 例えば、見知らぬ誰かの子供と、見知らぬ老人がいたら、そしてどちらか一方だけを助けることしか出来ないとしたなら、僕は迷わず子供の方を助けるだろう。見知らぬ子供と年老いた自分の両親、どちらか一方だけを助ける事ができるとしたら同様に子供の方を助けるだろう。僕は親から、そういう教育を受けて来た。
 ただし、既に僕が手をつないでいる親の手を離せば他人の子供を助けることができる、そんな場合、おそらく僕は親の手を離す事は出来ない。ただ見てるだけで何も出来ない事もある。

 命を助けるという事は、命の行く末までも責任を持たなければならない。助けて終わりではない。見知らぬ子供を助けたなら、その子の保護者や親族を探し出して見届けるか、もしもの場合は子供の面倒を見る覚悟が必要だという事になる。命を助けるとは、そういう事だと僕は考えている。
 飼犬に対しても同じだ。一時的にせよ自分が預かった飼犬の命に対し最後まで責任を持つ。万が一の際に「仕方がない」と言い訳して見捨てる事は絶対に出来ないし、してはいけないと考えてる。どんな時でも最後まで責任を持てないのであれば、最初から他の命に関わってはいけないと思う。

 新しい事を始めようとする場合、必ず身近な人の中から反対する人が現れる。それは人助けの事であっても例外は無い。それが日本という国に住む人の本質なものだろう。行政は前例がない事を言い訳に、何か問題が起こってからでないと腰を上げないのは上司も担当者も誰も責任を取りたくないからだ。
 行政が後手に回るのは、ある意味仕方が無い。彼らが、いつだって予算が無いことを建前にして新しい事を何もやりたがらない。もっとも、それは行政に限った話では無い、ある程度の規模を持つ企業だって同じようなものだ。

 いつだって「自分の身は自分で守る」しか方法はないし、どの時代でも「自分の道は自分で切り開く」事でしか、生き残る術は無いのだというのが結論である。
 被害があって大きな社会問題にならない限りは何ら自ら動こうとしない、事なかれの日和見主義者には何を期待しても無駄である。ならば今も昔も国や政治屋に何かを期待しても無駄だ、彼らは常に自分のことしか考えていない。首のすげ替えは簡単で、その体質は何も変わらない。今更それに対して愚痴をこぼしても始まらない。

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