PCなんて本当にバカ高い玩具だよ(その2)

 僕自身、パソコンとは非常に金のかかる「おもちゃ」である。と思っている。判ってて楽しむ分には問題はない。
 アプリが用意している全ての機能を満足に使いこなせていない時点で、反論できる人は存在しないだろうと思う。もっとも今は、それでも十分満足できる状況では有るんだけど、ね。

 百円ショップに行けば全て用意できる「紙」と「鉛筆」あるいは「色鉛筆」か「顔料」等があれば出来る作業を、わざわざ高い金を出し、簡単な事に恐ろしく時間をかけて作業しているのが実状。
 そして世界中に住む、非常に多く居る PCを使っている人々、その大部分が予め用意さている機能を全く使えてない事も現実なんだ。

 表現力に関しては「紙」と「鉛筆」で出来る範疇を遥かに凌駕していると思っているけれど、世の中に出回っている資料の表現力に関しては他の誰かが作った資料の「猿真似」でしかない。
 極論を言ってしまえば、授業で学ぶパソコンの授業は文具の使い方でしかない。パソコンの持つ無限大の可能性を否定しているだけで、単に道具を使えるか否かに良いも悪いもない。

 使い方を誤ると無駄に時間を食うだけで満足な物は何一つ出来ないという事態も往々にして起こり得るが、所詮は使う人間が持つ感性や能力に左右されるため、どれだけ高価でお洒落な PCを用意したところで満足に使いこなせなければ単なる「役にも立たない置物」にしか成らない。
 アプリケーションにより与えられた環境下で、それに依存する形で成果物を提出したとしても、それはある意味、用意された「型に嵌められた物」でしかない。

 純粋な Creator自身の感性により全てが作られた物だとは言い難い。僕が考えるに、本当の意味で PC上に自分の意図した物を、完全な形で再現できる可能を持つ者はプログラミング能力を持った Creatorだけだろう。
 故事にいう「天は二物を与えず」という言葉あるが、確かにプログラミング能力の有る者が「小説」や「絵画」等の芸術作品を作れる Creatorかと言うと、それは難しいものがあるかもしれない。

 暴言を許してもらえば、プログラミングなら誰にでも出来る、落書きや作文なら誰にでも出来るのと同様である。確かに誰にでも取り掛かる事の出来る作業だけど、やっぱり人によっては向き不向きがある。
 根気よく全ルートの動作確認をし、不具合が出ればデバッグまでして、きちんと最後まで完成させる事が出来るか否かまで問えば、そこはやはり誰にでも出来る作業とは、とても言えない類のものである。

 地道な作業に夢中になれるか、全てを楽しいと感じられるか。長時間 PCに向かい寝食も忘れ没頭できるか否か。結局は個々が持つ生まれ持った資質や嗜好、能力や体質的に向いているか向いてないか、つまり才能だと思う。
 僕自身の体験から、プログラミング能力は誰にでも備わっている能力では無いと考えている。向き不向きから言えば芸術作品と同等な、つまり「絵」や「彫刻」あるいは「音楽」等を作り出すのと同じくらいに、個人の持つ資質や嗜好が重要となると考えている。

 好きな事として没頭も出来ないで、手を抜き不満を口にする輩には、結局のところプログラミングやデバッグ等、到底、最後まで出来ない。途中で逃げ出し回りに迷惑を掛けるから、向いてない者が就いて良い仕事では無い。
 不平、不満、愚痴とは所詮、資質や嗜好を持たない者が責任を持つのが嫌で、全力を出し切る事もせず、自分以外の誰かに責任を押し付け「被害者面」して逃げ出す準備をしているに過ぎないと僕自身は考える。

 言われない「八つ当たり」や「後ろ向きな思考」というのは、回りの能力ある人材の「覇気」までも削ぎ落とす。企業としても人的エネルギー資源の空回り、浪費や無駄遣いというより、単に捨てているだけだ。
 自分に向いてない仕事、嫌々している作業なら、自分自身が没頭できる様な本当に心からやりたい事を見つけて、さっさと離職して早々に職替えしてくれた方が世の中が全て丸く収まる。

 資質を持たない半端人の作った不完全で読み難いプログラム解析も、火を吹いた後の尻拭いもしないで済むから、会社の上司や同僚にも迷惑も掛ける事もなく皆が幸せになれると云うものだ。
 本人の資質がプログラミングに向いているか否かは、早めに判っていた方が結果的には本人の為にも回りのためにも非常に助かると思うので、そういった意味では義務教育の中でプログラミング実習を体験しておいた方が良いとは思う。論理的な思考実験の場としては、これ以上、効果のある授業はないと思うから。

 他にもプログラミングには、作業手順を明確にするという側面と、頭の中で思いついた形の無い物を具体的な形にする手段という側面も有る。いづれも対人関係に応用できる。
 しかし、導入するという理由が「将来プログラマが足りなくなる」からというのじゃ、近視的な視野しか持たない政治屋が期待してる様な効果は得られないと思うけど、ね。

 自分が楽しむために使う「機材」なら本人にとって、もはや「教材」とは呼べないだろう。それこそ思考を具現化するのを助ける「玩具」とでも呼ぶべき物だ。
 個々の人が持つ特性で、向き不向きは両親から全ての子へと遺伝する類の質では無い。鳶が鷹を産む事もあるし、逆もある。どちらの者にとっても PCとは、高価な「玩具」で有る事に特に違いはない。

 資質の有る者にとって PCは自分を表現するための、当に玩具であり思考を具現化する道具だ。逆に持たない者にとって PCとは高価な再生装置であり、体験を拡張する玩具だと言える。
 出来る事なら全ての人にとって、最初は己の体験を拡張する玩具から、自身を表現する玩具へと変容して欲しいと思うけれど、才能の有る無しに関わらず、そもそも無理な願いだろう。

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