小町「我家の子」記念日

 昨夜の七夕は雨のち曇り。秋田犬の小町が 1年と 2ヶ月目という時期に我が家にやってきた記念すべき時である。もっとも先住犬のアリスにとっては、あんまり嬉しくはない日なのかもしれないけれど… ね。
 さらに今は猫のスミレまで居る訳だし、アリスにとっては大変な日々の始まりだったのかも知れないが… (^-^;)

 人間である僕には、彼ら犬や猫が本当はどう感じているのかは解りようも無い。ただ彼らは僕と共に過ごして居る今この現状を、仕方ないから嫌々一緒にいるわけじゃない。それなりに満足してくれているのは確実だ。
 本当の所は解らないままだけど、実は解っている。言葉では言われてないけれど、態度で語ってくれているから。多分それは、僕にとって都合の良い真実だからという訳じゃないと思う。

 僕の中に「きっと彼らは幸せに感じている」と、そう思ってる。そうだと信じてる。そうで有って欲しい、そんな願いがあるのは事実。だから、そんなの気のせい、嘘だよと言われても、それを言い返したり頭から否定できる程の力を持たない。
 しかし、僕がそう感じてるのも、彼ら犬や猫自身が自らの意思で、家で、実家で、旅先で、僕と一緒に過ごす時間を望んでくれているのだと分かる様に態度で示してくれるからだなのだ。

 つまる所、彼らの「一緒に居られるだけで嬉しい」と思ってくれていると、僕が感じられる程に態度に出ている。もちろん、これは人と同じ様に犬や猫にも心があり意思表示をしているという前提に根ざしているけれど。
 人と同様に動物にも植物にも喜怒哀楽の感情があり、それを他者に伝える方法を知っているという前提で話を進めている。特に子供の様に素直に態度に表す者だと「似ている」というより「まるで同じ」と感じてしまう。

 犬や猫が示す言葉にならない仕草を、動物嫌いの人や共に暮らしたことのない人に説明するのは難しいとは思う。しかし、人も犬や猫も同じ地球上に生きている、同じ命の存在。たまたま巡り合わせた結果、アリスと小町、そしてスミレは僕が生きている同じ空間と時間を共に過ごす機会を与えられた、同じ命を持つ仲間達だと感じている。
 これを、単に「擬人化」しているだけだと言われたら、返す言葉を知らない自分が歯がゆいけれど、そう感じてしまうのだから仕方がない。

 彼らは「一人暮らしのオッさん」の人生に色を付けてくれた存在。彼らが一緒に居てくれたおかげで自宅から外に出て歩き回っても、誰からも「不審人物」とか「危険人物」だとか、そんな色眼鏡で観られずに済んだのだから。
 犬や猫を飼えば誰でも、僕と同じ様に幸運に巡り会うとは限らない。それは誰にも判らない、犬や猫を飼ったからと言って、本当に「幸せな気分」になれるか否か何て神様にだって預かり知らぬ事。それこそ一緒に過ごすと決めた本人にしか判らない事だろう。

 確かに僕は独り者のオッさんである。誰から見ても紛れもなく「孤独な人間」だ、それに関しては否定のしようも無い。けれど今の所は、地域社会から「孤立している人間」ではない、これは本当に有難い話だなと感じている。
 この 11年間、犬と一緒に外に出たお陰で多くの犬友達と知り合いになり、地区自治会の手伝いや、パソコン教室の派遣講師の仕事も入ってきたし、小中高校生の子供やレジ打ちのオバちゃん達にまで知られる様になってしまった。

 そもそも僕は、最初から出来た人間では無かったので、僕の人生に於いて大切な事は全て「アリス」を飼い始めて以降に体験した事だ。
 同じ出来事が見方によって「幸福」にも「不幸」にも成る事を知ったのも「アリス」と共に過ごす様になってから。
 心が大らかになったお陰で「小町」を引き取り、その後には「スミレ」を保護したのも決して偶然では無かったのではないか、体験として知るための必然だったのではないか、と今は考える。

 まかり間違えば、今までの人生を不幸な出来事の連続だったと言う事も出来る。そう考えなくなったのも全て「アリス」を飼ってからの話。
 実家の宗派が禅宗の一派「曹洞宗」であった事は偶然ではない。その頃インドから戻ってきた実兄が「ACIM」に傾倒し始めたのも決して偶然では無いかもしれない。気付けば僕自身も中古で「ACIM」本を手に入れ、先日から 1章を読み始めている所だ。単に興味本位に過ぎないが…
 全ては必然だったのか、僕自身の受け入れる準備が出来るまで待っててくれたのか。きっと 50代って信仰に興味を持つ年頃なのだろう。

 例えば第 1章 1節「奇跡の原理」に書かれてた、いかにも禅問答的な「奇跡に大小はない」なんて言葉、アリスと共に過ごしていた日々の中で実際に体験してなければ、とても素直に納得できる筈もなかろう。
 そんなこんなで「七夕の牽牛」繋がり。下図に「禅」話の中では有名な「十牛図」を観る。もしかしたら「丑」である僕が自分自身を知るために「アリス」と「小町」に出会ったのかも知れない、なんて風に考えたりする。

 この例に倣うなら、牛の代わりに犬。つまり「戌」の実兄の思考に倣えって事かも。もちろん僕と兄は実の兄弟であっても異なる個人。生まれた場所も時間も違うから、仮に「同じ山の頂」を目指していたとしても、最初に立っていた場所が違う。元々の出発地点からして違うのだ。
 それと同じで、各々の性格や体験に添った方法や助言など、別々の違った道が用意されている筈だ。幾ら何でも、優秀な実兄の行動を「そっくり真似ろ」という意味では無いことくらいバカな弟の僕でも解る。

 それは先人のつけた小さな轍かもしれない。舗装された広い道路かもしれない。まるで 30年前の 25歳の誕生日、富士山に登った時みたいだ。同じ登山道を登っていても、人によって体力が違うし、装備も違う。
 同じグループでも、ある人には楽に登れる山道が、別の人には苦しかったり、それによって休む場所だって違ってくる。間違いなく山頂へ至る道があっても、軽い高山病にかかり途中から登れなくなる人もいた。

 今後、僕自身がどうなるか、どんな道を歩むのか判らない。ただ、あれこれと自身で頭を悩ます事はせず、全ての出来事に感謝しながら心を空にして、流れされるままに任せていようかと考えている。
 言い方を変えると、これから先に起きる全ての出来事は全て中立だと言う事。それを「良し」とするか「悪し」とするかは全て己の感じ方次第だと言う事。理性は損得を意識して必ず迷うから、迷わない様に全ての出来事を感謝と共に受け入れた後は、本能か野性の勘に従う、と言い切る事にしただけなのだ。

 僕自身は、ちっぽけな器しか持たない人間だから、ある時は怒りに、時には悲しみに、悔しさや憤りに我を忘れるかも知れない。爆発しそうな時に無理に我慢して押さえ込んだりせず、泣いたり叫んだり笑ったりして正直に全てを吐き出し、気分をスッキリさせた方がいい。
 感情が溢れた時はいっその事、器をひっくり返し全部出してしまえば良いさ。ひっくり返して空になれば、どんな小さな器でも再び中に入れる事も出来るだろう。忘れた時は思い出せば良いだけだから、特に難しい話でもない。

 これは単に、ここで改めて「宣言」してみたって事に過ぎない。他意はない。

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