然るべき相手に伝わっている?

 ネットリテラシーとか言う前に、声なき声を代弁するんだとか息巻いてネットの匿名性を隠れ蓑に罵詈雑言を垂れ流してる連中に対し、少し気味がいい気もする。
 否々、そもそも愉快犯、確信犯、模倣犯が主犯格だろうから、これほど明らかな皮肉でさえ通じてないかも。

 現代では「ネットモラル」と言われているらしいけど、過去にも「ネットマナー」や「ネッチケット」等の言葉が生まれたりした。けれど結局は「匿名性」に隠れ誹謗中傷、最低最悪な状況に陥っている様な気もする。
 今ほど「寛容」と言う言葉そのものが白々しく響く時は無い。人の心は虚ろになり、温もりは消え失せ、ただ寒々と感じるのは気のせいだけでも無いだろう。その一方で僕の素朴な個人的疑問として、その様な連中って TV番組や ラジオ番組それに新聞や雑誌等を観たり読んだりしているのだろうかという疑問も湧くのだが…

 まぁ言わば「弱者代表」とか建前を言って TV局やラジオ放送局に対し、直ぐに抗議の電話やクレームを入れるのも同じ現象なのであって、一般的に言われる「差別用語狩り」者も結局の所、根っこは全て同じな訳さ。
 所詮そこには「悪意」もしくは「敵意」しか無く、議論する余地など元々ない。不毛なだけさ、ね。

 攻撃するための理由など実は何でも良く、攻撃パターンも毎回同じ。つまり「攻撃は最大の防御である」って奴。ちょっとでも気に入らないと感じたなら先手必勝。「差別」という旗振りの元で、体制を建て直す前に徹底的に相手の息の根を止めるまで叩き続けるって事になる。
 他にも「障害」とか「いざる」とか「お〜い お茶」に到るまで、まぁ色々な言葉が対象になるのよ。元の意味とか語源とかは一切関係なく、過去一度でも使われたシチュエーションが悪いからと、それだけの理由でだ。

 中には勘違いして、自分らが特別待遇を受けることにすっかり慣れきって日頃から何かにつけ横暴な態度をとる輩も中には居る。それが健常者であれ障害者であれ、印象の良い物では無い。

 僕自身、最近でも見た目では全く普通の人にしか見えなかったので、相手が「知的障がい者」だったとは全く気づかずに「手伝おうか?」と声がけしただけで「言葉遣いが悪い」と突き飛ばされて因縁をつけられた経験が有る。
 どうやら声かけする時は「お手伝いしましょうか?」と言わないといけないらしい。入社したばかりの若かりし頃、東横線の電車内で席を譲ろうとして「放っといてくれ。」と人前で怒鳴られた体験もしているから「小さな親切、大きなお世話」って返す輩を実体験として持ってるんだ。

 おかしな事に、そんな感じで当事者が「がなりたてて」いる例って少ない気がする。実際に色々と喧しく喚き散らしているのは、その周りにいる無関係な取り巻き連中だった。神輿に乗せられて喜んでいる当事者って少ない。
 迷惑と考えていたり不愉快に感じている話も聞いた。当事者を置き去りにして勝手に話が進んでいたりするんだ。誰も幸せにならない不毛な事を、なぜ取り巻きの連中は好きこのんでするのだろうね。不思議でならない。おそらく「お金儲け」のため、それしかなかろう。

 一番の被害者なのは、そもそも差別する意図も、その気も何も無かったごく普通の善良な方だろうに、ね。ただ代わりの言葉を知らなかったってだけで叩かれ、さらに無知だ情弱だとも言われてさ。
 好意から差し伸べられている手を自ら振り払っている訳なのだから自業自得だと言われてても、そもそも被害者面してて何事にも自分優先だから相手にも心がある事なども分かる訳も無い、か。
 無関心な訳じゃなく、ちょっとした区別の意味で使っても大げさに騒ぎ立てられるし、いっそのこと関わり合いにならんほうがマシだと考えるに至る。何て事も笑い話ではなく、実際にある訳だし。
 今は、助けようとした人が巻き添え食って死んだり殺されちゃったりする世の中だからねぇ。故に、見て見ぬ振りをしたり、無関心を装ったり、知らんぷりを決め込んだり。それを処世術などと嘯く連中も出てくる。
 サボり怠ける事を「ゆとり」とほざきながら己を正当化し、注意しただけでパワハラと騒ぎ立てる世の中だし、それも時代の流れ、仕方のない事かなって思ったりもするけど、それはそれで異常な気もするし、どこか変だよねぇ。

 性別が異なる事を「旗印」に上から目線で何を言っても許されると「何様」が居る。議員と言う以前に「人としてどうよ?」って言う様な、どこかには勘違いしてるバカは居るし、もうむちゃくちゃ。もっとも、そんな輩は大昔から居たけどね。
 ちょっとおだて上げられると、それが当然と勘違いする輩は何処にでも何時の時代にも存在する。世の中には「先生、先生」とおだてられてイイ気になってるだけで満足に仕事もしていない、単なる神輿の羽飾り程の役にも立ってない居眠り議員の方が多い。実情は、一部の権力者に利用されてるだけの「頭数」に過ぎないのにねぇ。

 誰かの「善意」に感謝する心を忘れた時点で人は傲慢になる。それは「一般の人」でも「身体障がい者」でも何も変わらない。また感謝して素直な心で受け取るのと、他人の優しさに触れ感動して涙するだけじゃ、結果は全く違ってくる。
 素直な心で善意の心のバトンを誰からか受け取ったなら、また別の誰かに感謝の心のままに差し出す事も出来る。傲慢になると他人からの善意に対し感謝しない、自分に与えられた当然の権利と搾取する。欲張りの果てに全てを自分の所に蓄えてしまう。仮に感動して涙しても、単に自分の益だけ考えているなら良い物悪い物も全て自分の所に留める事になる。そこから逃げる事も、何かを解放する事も自らやめてしまうから身動きも出来なくなる。

 多少の荒事なら「ブラックユーモア」と割り切って笑い飛ばす度量の大らかさと、本当の意味での「心のゆとり」が欲しいと思うんだけど、さ。
 とか何とか「何処かの誰か」さんを題材に、その「何処かの誰か」さんを小馬鹿にしている時点で、結局のところ「僕自身が一番の大バカ者なのだ」と言われなくても判っちゃいるんだが…

 何が起こっても何を言われても Spiritは揺らがない。そんな境地に早く辿り着きたいものだ。世の中の全ての出来事を達観視できる程には、未だ修行が足りてないねぇ。何か事ある毎に、一々 Mindがざわつく訳さ。ダメだなぁ。
 そもそも昔から「バカは死ななきゃ治らない」とか「馬鹿に付ける薬はない」なんて言われ続けてきたのだから、僕の場合も「僕自身がバカなんだから仕方ない」で、諦めるしかないのかもねぇ?

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