伝えられるものならば

 映写しながらピアノを演奏している感じがして、昔のサウンド版「サイレント映画」みたいな動画。

せめて感謝だけでも…

イイなぁ、こーゆーの…(その 6)

 この話は主人公である犬の「記憶」の物語。飼犬は癌にかかり、既に手の施しようは無く、もはや治療法もない。かろうじて痛み止めでしのいでいるが、他に助ける手段もなく、もう何日も痛みに苦しんでいる状態だった。
 これは最後の病院に向かう車の中で、彼が振り返る幸せな記憶、大好きな飼主さんと過ごした日々の思い出。

 これは「飼犬の安楽死」をテーマにした動画。我が家に於いては、ずっと先の話だと信じているけれど場合によっては直面する日のくる事も考えてなきゃならない。
 個人的な意見として、人の「尊厳死」にも通じる「安楽死」を否定するつもりはない。人の場合は、その大前提として「本人が自身の明確な意志で選択した場合に限る」と考えているけれど。

 言葉による意思表示が不可能な飼犬や飼猫の場合、飼主である自分が、彼らの痛みに苦しむ姿を見てるのが辛い、というのでは無い。痛みに苦しんでいるのは僕の体ではない、だからと言って代わってあげる事も出来ない。
 既に手の施しようが無く「死は避けられ無い」ものとして「受け入れている」のであれば「痛みや苦しみから早く解放してあげたい」と願うのは決して悪い事では無いと考えている。

 人の場合は、認められていないからと殺人罪が適用されるならば、せめて痛みを軽減する「ターミナルケア」を、もっと身近な医療にするか、あるいは一部で「麻薬」と呼ばれる薬物を処方し、在宅ケア専門に使っても良いんじゃないかしらとさえ考える。
 これは、あくまで僕の「個人的見解」である。他人に対し、どうこうしようという意思も行動力も持ってないし、今ここで深く議論する気もない。

 もっとも、こんな物や制度に頼らず病気や怪我もせずに幸せなまま徐々に歳をとり、老衰で自然に目を閉じて眠る様に逝ってくれたなら、それが本人にとっても残される者にとっても一番だと考えてるけど。
 人の生き方に違いがあるのと同じで、人の死に対する考え方も異なるものだ。何れにしても「死生観」に関しては様々な人が自分の意見を持っていて当然だと思う。同じ血を分けた親兄弟の間でも意見はそれぞれ異なっているだろう。それが当たり前であると僕は考えている。

 だからどうか、お願いだから専門家面らした「有識者」と呼ばているだけの、単なる一個人が発した「見解」等に振り回されず一人一人が自分の心の声に従い、それを自分の意志として大切にしながら、同様に相手の考えも大切にしてあげて欲しい。
 自分こそが正義と思い込み、自分の意見と違うという理由で相手を糾弾する事だけは止めて欲しいと節に願う。

 また、これは別の動画。

 飼犬を捨てに森の奥へと分け行った男性が自動車事故を起こし、自分が捨てた犬に助けられるという「お話」で、こちらはフランスにある動物愛護団体「The 30 Millions d’Amis Foundation」が無責任に犬を捨てる行為を止めさせるキャンペーンとして作成した動画と言われている。
 現実、こんな実話が有ったのかどうかは知らないけれど、田舎道の奥にある家が火事になって、犬が助けを求め人を呼びに行き警察と消防を案内して戻って来たという話や、溺れた子供を助けたとか、飼犬に助けられたという話を世界中から探し出したら枚挙に遑が無い。

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