講師は生徒を選べない

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 一応、現在の職業として表向きには「パソコンの派遣講師」をしているって事になっている。
…とって言っても、まだ教え始めて 3年目に入ったばかりの青二才のペーペーだし、出向いている場所も 1ケ所だけだし、とても経済的には自活できているとは云い難い状態なんで、実態は「プー太郎」なのだけど。

 教員免許なんて持ってない。とは言え、パソコンやワープロの講師は、なぜか「面倒見の良さ」を評価されたという話で、幸か不幸か富士通に勤務していた頃から後輩の指導を業務の一貫に割り当てられていたし、宮崎市内の企業に就職した際も、なぜか人に何かを教える業務を割り当てられるのが多かったのは、人から言われるほど指導するってことに対して、特に苦痛とは感じてなかったからだろうかなぁ。
 一度もプロの講師になったつもりは無い (僕なんかぢゃ、とてもじゃないが足元にも及ばないから…) けれど、人に何かを指導したって事になると在学中の家庭講師の頃から数えたら「足掛け 33年超」って事になるのか…

 講師として他者を指導する立場に立って、初めて解ることは「講師は生徒を選べない」ってことだ。一方の生徒は講師を選ぶことが出来る。僕らが学生の頃だって、講義の単位選択する時に「人気講師の噂」で一喜一憂していたものだし、講義に出席したり、サボったり…
 一方の講師側からしたら、どんな生徒だって受け入れなければならない責任がある。真面目な生徒ばかりじゃない。おとなしい生徒ばかりじゃない。やる気のある生徒ばかりじゃない。

 僕は未熟者だから、さすがに何度も何度も同じ事を説明させられるとブチ切れますけれど、相手が初めてであれば「知らないのは仕方のないこと」との認識に基いて指導するので、あまり精神的な苦痛は感じていない。
 特に、一つの目的に対して、方法が一つしか無いわけじゃないから、時として、いろんな場合に柔軟に対応できる「精神的なしなやかさ」が必要になる。何かを教えるって事は「通り一辺倒のことだけ教えれば、それで終わり」ってことは絶対にないからだ。

 なんだかんだと言いながら、結局のところ「教えている」ことを「楽しんでいる」自分がいる事が判っているから、辞めないんだろうな。
 元々想像すらもしていなかったことなんて、ごく普通、一般的な日常の様に発生するから、それに一々反応したり、慌てたり、焦ったりして、つい本音を晒したりできはしない。だけど、一方的に「堪える」ってのは正しくない。つい「適当に受け流す」んじゃなく、ちゃんと「しなやかに受け流す」技量が求められるって事なんだ。

 もっとも、細かなことまでいちいち本気で相手にしていたら、どんなに精神的にタフな人でも無理だと思う。だけど実際の所、端から見たら変な事を言ってても当事者にとっては「本気のセリフ」だから、適当に返して「お茶を濁して」は失礼に当たる。
 例えば、質問には出来るだけきちんと応えるけれど「解からないことは解らないから次回までには調べてくるからゴメン」と、さらりと切り返せる、指導する立場の人間が知らないという自分の弱みを生徒に見せても、自身の軸がブレない事の方が大切だって理解しているかどうかだって思う。

 自分のプライドを守るだけの「知ったかぶり」なんて見苦しいだけだって、生徒には見ぬかれちゃうし、それで信用を無くしたら後々困るのは自分自身だ。間違いを教えるより、正しいことを伝えようと努力することが信用を築いてゆく。知ったかぶりじゃダメなんだ。
 それに「指導」している立場だからと言っても、僕自身が生徒よりも賢いわけじゃない。あくまでも、本人のやる気をサポートしているだけなので、本人にやる気がなければ始まらないし、覚えなければダメ、言う通りにしろっていうような「上から目線」や「私が偉い」なんていう勘違いをしてはならないことも肝に銘じて置かなければならない。

 あくまでも、僕らは「本人のやる気を支えるサポーター」だから。それ以上のことも、それ以下の事もしちゃダメだ。以上のことをして誤解を招くことも、以下のことをして不満を抱かれても、指導する立場の者としては大失敗となってしまう。
 人によって学ぶスピードは違う。覚え方も、やる気の出し方も違っている。一人ひとりをサポートする上で、全ての生徒に対して平等である必要はない。全員が等しく、同じような進捗で学んでくれればそれに越したことはないけれど、実際は。そんなことは夢物語だ。

 判っている人が、判らない人を教えてくれる。隣の人が、前に座っている人が、判らない人を教える。そうやって自分たちで教え合う環境を整えてあげれば、少なくとも授業中の取りこぼしは少なくなるし、等しく、全員を見て理解度を測り、それぞれに的確なアドバイスを与えることが出来れば、誰も誰かを「えこ贔屓している」と妬んだり、誤解されたりすることは無くなる。

 個々にあったサポートをしていると、全体から見たら、どうしても「えこ贔屓」にならざるをえない。しかし、等しく全員を見渡して、それぞれ個々人に対して気を配ってさえいれば、なんとか皆はそれで満足してくれる。
 出来る、出来ないに関わらず、だれだって自分が無視されたり、放ったらかしにされたりしたら不愉快に感じるものだ。ただし直ぐに対応できなくても、時間をずらしてでもきちんと対応していれば、出来るだけのことはやっていると認めてくれるし、ワガママを言わず大人しく順番を待ってくれるものである。

 慣れない 1日が終わったら、本当にクタクタに疲れてしまうけれど、ことパソコンに関してなら、新しい OSが出てくる度に自分自身も沢山、沢山、覚えなくちゃいけないんで、のほほんとしている暇なんかないってことなんだ。
 自分の勉強の手を止めるのは、結局のところ自分自身が許さない。

 もっとも、パソコンの黎明期から使っている身としては、パソコンに関しては、ハードもソフツも、コレまで一度も誰からも習ったことはない。誰かが教えてくれるのを待っていたのでは出遅れてしまうし、習ってないから出来ないなんて言い訳にもならなかった。
 そういった意味でも僕らの世代は、ある意味、先生が誰もいなかったわけだから、コレまでのことは殆ど全て独学で身につけたことなんだ。常に新しいことを覚えなきゃいけない環境に、いつも身を置いていたって事だ。

 それはプログラム言語に関しても同じ。新しいプロジェクトの中で、何かのシステムを新しい言語でプログラミングする必要が生じた場合、そのプログラム言語を知っている人なんて身近にはいない。田舎であれば、なおさらのこと。
 どんなプログラム言語が主流になるか、なんて誰にも解らないから、結局は自分自身で判断するしか無い。その責任も自分自身で被ることになる。次々に新しいプログラム言語が生まれては消えていく。ぼやぼやしていると、いつの間にか主流から外れて消えてしまっている言語だって有る。誰にも、何にも判らないっていうのが真実なんだ。

 だから、ソフトウェアで、次々に新しいのが生まれて消えていくのも仕方のないことだという認識はある。それが良いとは決して思わないけれど、ある程度、進歩して行く過程で、取捨選択されていくのも、当然の流れであるとの認識が有る。
 変わること、変わらないこと。何かにしがみついたり、こだわったりすることは、とりあえず今は不毛なこと。コンピュータが進歩していく過程に置いて、次々と変わっていくこと、それに追いついて学んでいくことこそが、その渦中に身をおくことを選んでしまった、自分自身の責任でも有るわけだから。

 偉そうな事を言ってみても、結局はパソコンが楽しくて遊んでいるだけだしね。自分自身、楽しめる間はそれだけで幸せなんだから、多少の大変さや苦しみも、それはそれで良い訳なんだ。
 そういった意味でも、僕は、実に面白い時代に生まれたものだよね。これまでも全ての進歩を目の当たりにして見てきたわけだし、これからもずっと見続けているのだろうな。それは、本当に楽しい事だよね。

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